足袋の端

ヨミがいる100日目の話

 エーリアスに迷い込んでから100日目になることを無事祝われ心温まった教主は、嬉しさのあまり寝付けずに散歩をしていた。日付はもう切り替わっており、101日目の朝が数時間のうちにやってくる。しかし今はまだ、月は上空で星々と共に輝き、明かりが消え喧騒も止んでいる地上を柔らかく照らしていた。

 何気なく向月葵(こうげつき) の花畑までやってきた教主は、きっとそこにいるだろう使徒に向かって、そっと声をかけた。

「ヨミ、いる?」

 すると、シャランという鈴の音と共に、ヨミが穏やかな声で応じた。

「はい、月様。こちらに」

 声のした方を教主が振り向くと、彼女は月明かりに照らされる花畑の中にいた。教主と目が合うとにっこりと微笑む。

「ああ、やっぱりいた。ヨミ、実は今日はね──」

 そう言いかけながら、教主はヨミのそばへ寄っていた。夜の静寂(しじま) に吹く風の、草花が揺れる音さえ聞こえてきそうな静かな夜。さわさわと花々をかき分けて教主はヨミの隣に座った。不思議と、「今日は私がここに来て100日目の日だったんだよ」と言わなくてもヨミには通じているような、そんな気を抱いて、教主は言いかけていた言葉を飲み込むと夜空を見上げた。

 ──エーリアスで初めて迎えた夜はどんな夜空だったかな? 満月だった? 三日月? それとも新月?

 慌ただしい日々の中では、そんな些細なことはすぐに忘却の彼方へと流れていってしまう。本当に、これまで色々な騒動があったな、と教主は心の内でこっそり苦笑した。

「──100日目、ですね」
「うん。やっぱり、ヨミも覚えていてくれたんだね」
「はい。もちろんです。先程まで、お祝いの席におられましたね」
「知っていたの?」
「ええ。私も加わろうかとも思ったのですが……」
「構わないよ」

 教主はヨミがパーティに駆けつけなかったことを不思議と不満には思わなかった。それはおそらく、ヨミならば100日目に限らず、教主との一日一日を大切にしているという信頼があるからだろう。自分のことをヨミが「月様」と呼ぶ、その思いの強さは、他の使徒たちとは少し趣が異なるように教主は感じていた。

「あんまり大勢になると、今度は『誰々が参加してるのに誰々は参加してない』って悪い方ばかり見ちゃいそうだし。だから、それぞれの代表者にちょっとしたパーティで祝われるくらいがちょうどいいんだ」
「月様がそのような、悪い方ばかり見る見方を?」
「私、きみが思うよりは器が小さいよ。今日だって、実は散々不貞腐れてしまったしね」
「そうだったのですか?」
「ああ。ちょっと問題があってね。みんなが100日目のことをちゃんと祝ってくれないんじゃないかって……私はみんなを信じきることができなくて……それで、子供のように拗ねてしまったんだ。本当に、ちっぽけな人間だよ」

 教主が自嘲気味に笑うと、ヨミはすっと腕を伸ばして、夜空に浮かぶ月を指し示した。

「月様。どうか、そのように己を卑下して自分を決めつけてしまわないでください。ご覧ください、この星空を際立たせる月は、見る人の心によってその模様の形を変えます」
「ああ、私の故郷でもそうだったよ。ウサギだったり、色々ね」
「わたしたちもきっと同じです。月様の自己評価をことさら否定するつもりはありません。けれども、それは月様自身から見ただけの評価だ、ということだけは忘れないでください。私たちからは──いえ、使徒たちそれぞれ、少しずつ異なる月様を見ているのです。そしてそのどれもが、本当の月様であることに変わりはありません。だから、月様は先程『ちっぽけな人間だ』とおっしゃいましたけど、私に言わせれば、そうではありません」

 少し恥ずかしくなった教主は、ふいと顔を横に背けると、からかうような口調でヨミに尋ねた。

「それは物理的に、ってことでしょ?」
「ふふ。物理的にも、それ以外でも、です。月様は私たちを何度もあるべき形へと導いてくださっているのですから」
「そういうものかな」
「はい。そういうものです」

 そしてしばらくの間、二人はただ黙って月とそれを見上げる向月葵を見ていた。自身の鼓動がそばにいる相手にも聞こえてしまいそうなほどに。向月葵の花の香りが柔らかに二人を包む。穏やかに吹く夜風のように、時はゆったりと流れた。

 

「──あ、そうだ」
「どうかされましたか?」
「多様的に見れる──ってことなら、ヨミ、きみも、私からはまだ見えていない面があるのかな?」

 教主の言葉に、ヨミは珍しくいたずらっぽく笑うと、「さあ、どうでしょう」と応じた。

「月の明かりに咲き普段は閉じている向月葵のように……あるいは、満ち欠けを繰り返す月のように……物事には時期、というのがありますから」
「ふーん。じゃあ、その時まで待つことにするよ。エーリアスではやることがたくさんあるからね。気長に、ヨミの新たな一面を見る時を待ち続けようかな」
「私も、月様と過ごす一瞬一瞬を、大切にしていきたいと思います」

 明日からはまた、いつものように騒々しい日々が始まる。それでも今夜の、自分が見上げているこの月の姿だけは、忘れたくないなと教主は思った。100日目を祝ってくれた皆の照れくさそうにはにかむ笑顔も、もちろん忘れるつもりはない。だが、この光景だけは、ありありと瞳の奥に焼き付けておこうと思った。夜空から煌々と地上を照らす、あの満月を。隣にいるヨミの、静かに微笑んでいる姿を。