足袋の端

赤い山

 子どもたちの遊びは時代と共に変わる。だが本質は基本的に変わらない。遊びとは、友人とのコミュニケーションだ。鬼ごっこをしていようが草野球をしていようがゲームをしていようが、野山を駆け回ろうが。少なくとも、普通はそうだ。

 高校生の頃、私には藤本(ふじもと) (しゅん) という同級生の友人がいた。藤本はクラスの中で浮き気味な人間で、当初は私もクラスメイトから孤立する彼を遠巻きに見ていた。

 彼は、心の壁とでもいうものが厚く、そして高かったように思う。

 ところがひょんなことから私は藤本と会話をし、接点を得た。そして一度話せば不思議なもので、段々と打ち解けていったのだった。こういうのを馬が合う、とでも言うのだろう。沈思黙考するような彼に対し、私はどちらかといえば軽佻浮薄な人間。趣味や嗜好もまるで違う。それなのにどうしてこんなに仲良くなれたのだろう、と我ながら訝しんだこともあった。

 あの頃、高校生の遊び場といえば、たとえば街のゲームセンターだったが、私たちはもっぱら藤本の家のそばにある山で時間を潰した。

 山の名前は知らない。「山」といっても大した標高のあるものではない。藤本は単に「裏山」と呼んでいたし、わたしも「藤本の家の山」だと認識して、それ以上は知らなかった。

 放課後、その山で遊ぶ──といえば聞こえがいいが、特別な何かをしたわけではない。ぶらぶらと散歩をし青春を浪費するという、贅沢な時を過ごしていた。

 話の種は、その日学校であったこととかテレビのバラエティやドラマのこと、共通して読んでいる漫画のことなど。話しながらだらだらと歩き、ちょっと見晴らしの良い所まで来ると、そこでひとしきり駄弁って山を下る。ただそれだけだ。

 そんななんでもない時間だったが、大人になった今でも思い出すことがある。

 夕暮れ時、山肌が茜色に染まった世界で、わたしの隣に立つ藤本が夕陽に目を細めていた姿を。

 彼の母親は当時、すでに鬼籍に入っていた。

 山遊びに付き合っていた理由の一つには、そういう彼の身の上に同情して、一人ぼっちで父親の帰りを待つ彼の寂しさを紛らわせてやろう、という部分があったのかもしれない。

「きれいだよな」

 まだ帰りたくない。帰らないでくれ。そんな気配を滲ませながら、独り言のように呟く彼のどこか寂しそうな表情は、今でも忘れられない。

 

 ところが人付き合いというのは薄情なもので、連絡をしないでいるとあっという間に途絶えてしまう。

 高校から大学へと進学し、わたしと藤本は急に疎遠となった。別の大学とはいえ地元の、つまり同じ県内ではあったのだが、なんとなく連絡はしないでいた。喧嘩別れをしたわけではなかったのだが。

 言い訳をさせてもらうと、当時──平成中頃──のわたしたちは文明の利器、携帯電話を持っていた。しかし、「まあ、会うタイミングがあるなら、その時にでも会おう」くらいの気持ちでいたのだ。少なくともわたしはそうだった。あの頃はまだLINEのようなコミュニケーションツールは存在せず、もっぱら電話かメールでのやり取りがメインだった。そういうツールで頻繁に、それも男同士で連絡を取り合うのもなあ、という感情があったのだ。

 さて、そのタイミングとやらが巡ってきたのは、大学の前期が終わり長い夏季休暇に入った頃のことだった。入学してからそれまで、サークルにバイトにおまけに講義にと、わたしは学生の本分であるところのモラトリアムというやつを存分に満喫していた。幸いなことに、気の良い友人たちにも恵まれた。

 そういった、充実した時間から得た一種の余裕──少年から青年へと成長した実感とでもいうのだろうか──から、わたしは夏のある日、いきなり藤本の借りているアパートを訪ねようと思い立ったのだ。思い立ったがなんとやら。わたしは颯爽と自転車にまたがり、藤本の住む街まで向かった。

 いわゆる、ドッキリというやつのつもりだった。

 住所は互いに教え合っていたので、道に迷うようなことはほとんどなかった。自転車でいけば1時間もかからないはずだった。ただ、ペダルを漕いでいるうちに、真夏の日光に晒されたわたしは汗でびっしょりとなり、体に貼り付くシャツと気軽に出てきた自身の軽薄さを恨みたくなったのを覚えている。

 ヒイヒイとなりながらもたどり着いた藤本の借りているアパートは、当時の視点で見ても恐ろしく粗末な建物だった。戦後間もない頃に建てられたのか、とでもいうような木造二階建ての代物で、アパートは垂直に建っておらず歪んでいるようにも見えた。突風でも吹けばギイギイと木材の悲鳴で合唱になるような──それ以前に、屋根板が剥がれバラバラと飛んでいってしまいそうな──とにかくそんな塩梅で、二階にある彼の部屋に向かうための取ってつけたような外階段を上がることすらためらわれた。

 二階に上がった先の渡り廊下もまた、恐ろしいものだった。思い切り地団駄を踏めば突き抜けてしまうのではないかと思われるほど床はたわんでいて、わたしは可能な限り足に体重をかけぬよう、一歩一歩静かに歩いた。炎天下で自転車を漕いだ時に流れた汗とは違うタイプの汗が、背中を伝う。

 二階に住むためには体重制限が必要なのではないか。そんなことを考え現実逃避を始めた自分を笑い飛ばしながら、ようやくわたしは藤本の部屋の前に立った。

「藤本ー? 俺だー。来たぞー。いるかー?」

 汗を拭きつつ呼び鈴を押し中に声をかけたが、返事はない。部屋に誰かがいる気配もなかった。念のためもう一度同じことを行ったが、応じる気配はやはりない。

 バイトか遊びにでも出ているのだろう。

 藤本の帰りを待つという手もあるが、そもそも真夏。外で待つのは堪えられなかった。待つために利用するとしたら、短時間ならば当時はまだ漫画雑誌を立ち読みできたコンビニ、長時間ならばファミリーレストランになるだろう。しかし彼の帰りが何時になるのか、これがわからない。

「どーすっかな……」

 そうぼやいたその時、部屋の中からコトリと物音が聞こえた──気がした。

 わたしは身構えた。先程は何も気配がなかったのに。まさかドロボウか何かか──そう考え何の気なしにドアノブに手をやったところ──ドアノブは何の抵抗もなく回り、扉は開いた。

 

 「藤本ー?」

 一応玄関先から声をかけながらわたしは中を覗いた。部屋の中に閉じ込められていた熱気が顔にあたり、思わず顔をしかめる。

 やはり、中に人の気配はない。それに玄関先に、彼の履いているであろう靴も見当たらなかった。もし先程聞こえた気がした物音が空き巣か何かのものならば、今頃大慌てで逃げ出しそうなものだ。しかし部屋の中は至って静かだった。

 ひょっとすると、防犯意識が甘いのかもしれない。何しろこのアパートは傍目にも見て取れるほど金のない学生が屯していそうなアパートだ。

 ふと、そんな甘い意識でいる藤本を注意してやろうといういたずら心が芽生えた。

 ──部屋の中であいつを待って、帰ってきたら驚かせてやろう。

 幸い、道中のコンビニで買った飲料水はある。部屋の物を勝手に触ったり冷蔵庫の中の食料を漁ったり、卑しい真似をしなければ藤本は笑って許してくれるだろう。わたしは部屋に上がることにした。

「おっ邪魔しまーす」

 言い訳のように一人呟いて廊下を進み、部屋を覗いてわたしはぎょっとした。というのも、床いっぱいに、何か商品を包んでいたであろう包装紙が散らかっていたのだ。

「おわっ」

 わたしも一人暮らしの怠惰さを身に着けていたが、これはあんまりだろうと思った。ゴミが散らかり放題になってるだけでなく、この部屋にはエアコンがなかった。扇風機すらなかった。窓には分厚いカーテンがかけられ閉められていた。不用心なら不用心なりに、窓を開け網戸にでもしておけば部屋の気温が少しは違うだろうに、と毒づかずにはいられなかった。

 まるで、おがくずを敷き詰めただけの殺風景なハムスターの飼育ケースだ。

 手近な包装紙を拾ってみると、それには『本田文具店』という店舗名が書かれていて、少し離れた地点には『油絵具セット』や『キャンバスボード』といった商品名が書かれたレシートも落ちていた。

「あいつ、芸術に目覚めたのかぁ?」

 少なくとも高校時代はそんな様子は微塵もしなかった。彼の通っている大学といえば平々凡々なもので、学部は経済学部だったはずだ。まかり間違っても芸大ではない。実際、部屋の片隅にある背の低い本棚には極めて一般的な大学生らしい教材と趣味の雑誌や漫画が並んでいて、美術の美の字もなかった。

 だが、それ以外は絵画に目覚めた人間の部屋と言ってもよかった。足の踏み場もないほど散らばる、割かれた包装紙。隅に投げられている、おそらく空になった絵の具のチューブ。ゴミ箱からはぐしゃぐしゃと丸められた画用紙がこんもりと溢れている。そして、布をかけられている物体が押し入れの前に置いてあった。

 直感で、それがキャンバスを立てかけてあるイーゼルだと理解する。

「いやいや、形から入りすぎだろ……」

 呆れるやら何やらで、わたしは苦笑を漏らした。

 元々、ひととはちょっと違う部分のある人間だとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。それと同時に、藤本がどんな絵を描いたのか気になった。

 布の下が何も描かれていない真っ白なキャンバスだったら後で藤本をからかってやれるし、何か描かれていたとしても、それはそれとして藤本をからかえる。

 本人不在の中勝手に絵を見るという罪悪感はほとんどなく、軽い気持ちで、わたしは布を取り外した。

 

 真っ赤な色彩が、まずわたしの目に飛び込んできた。

 少し間をおいて、それが夕暮れの表現だと気がつく。

 画面上半分を占める夕暮れ空の赤は、チューブから取り出した朱色をそのまま塗ったような、単調な色だった。まるで美術の成績で「1」をもらう子がやるようなものだ。

 背景で弧を描いているのは山の稜線だろうか。画面の左右には焦げ茶の、骨がところどころで折れたようにデタラメに伸びた枝をつけた木が数本描かれている。そして手前から画面中央に向かって白蛇のような獣道のような線がのたくっており、その線が切れた先に、女が立っている。

 実際は、それが女かどうか定かではない。わたしがそれを女だと思ったのは、黒髪の長髪の持ち主だと認識したからだ。微笑んでいるような、表情らしきものもおぼろげにあった。

 ただ、やはり下手だった。ちゃんとした画材を用意し、おそらく下書きと思われる画用紙をゴミ箱から溢れさせている割に、成人間近の人間が描いたとは思われないほど、それは描写としていびつだった。

 幼児にクレヨンを握らせれば、ものの十数分で描くのではないかと思われるほど、稚拙だった。

「……はあ?」

 思わず気の抜けた声を出してしまうほど、わたしは混乱した。見れば見るほど、何もかもバランスがおかしいのだ。

 立派な画材に幼稚な絵、というだけでなく、絵の中の女も背丈が異様で縦に引き伸ばしたようになっており、頭頂部はキャンバス上部すれすれにあった。幼児が描くならばサイズ感や遠近感がおかしくてもしょうがないように思うが、これは一体どうなんだろう、とわたしは思わざるを得なかった。

 じわじわとセミが鳴くのを聞きながら、わたしは汗を拭い拭い考えた。

 ひょっとすると、写実的な絵ではなくもっと抽象的な……あるいは、連綿と続く美術史の次なるステップを模索するような現代芸術か……わたしには理解できないが、否定してはいけない類の絵なのかもしれない。

 そう考えると、わたしはその奇妙な油絵としばし向き合わざるを得なかった。同じ大学生として、藤本に理解できてわたしに理解できないとなれば、なんとなく「負け」たような気持ちになる。

 だが、部屋の窓を開けるのも忘れてむせるような暑さの中で何分もにらめっこをしても、その絵の良さというやつは浮かび上がってこなかった。

 

 油絵の女を眺めるのに飽きたわたしは、ふと思いついてキャンバスの裏側に回った。これほど形から入ることにこだわっているならば、裏側にサインなり題名なり入れてるだろうと考えたのだ。

 はたして、キャンバスの裏には題名と思しきものがひらがなで書いてあった。

『し……め……』

 全部は読み取れなかった。読み取れた文字を声に出そうとしたところ、突然冷えた汗が背筋を伝い、わたしは情けない声をだした。そして急に、この油絵と二人きり(・・・・) でいる状況を恐ろしいもののように感じ、絵画に布をかけ直すと、急いで玄関へと引き返し、靴のかかとは踏み潰したまま、自転車を飛ばして自室へと舞い戻ったのだった。

 

 藤本から連絡があったのは、その日の深夜のことだった。メールではない。電話が入っており、爆睡して眠りこけていたわたしはそれに気づかず、翌朝、藤本の声を吹き込んだ留守電を聞いた。

「……あ……で…………な……よ……」

 聞き取れない。とにかく声が小さかった。嫌がらせのように感じ、わたしは軽くイラつきながらボリュームを最大にした。

 それでもよく聞き取れず、藤本の話すことが要領を得ない。まるで宇宙人の言葉を解析するような気持ちで何度も繰り返し聞いてわかったことは、次のようなものだった。

『あの絵はどうだった』
『ひとに見られるの照れるなあ』
『でも最初に見たのがお前でよかった』
『お前の感想が聞きたいなあ』

 わたしはそういった藤本の言葉を何度も繰り返し聞きながら、腹の底から冷えるような気持ちになった。

 ──なんで俺が部屋に来たって知っているんだ……あの絵を見たって知っているんだ……

 布のかけ直し方がまずかったのか? 床に散らばった包装紙の配置を仔細にあいつが覚えていたのか? いや──

 ──押し入れに、潜んでいた?

 突拍子もない自分の閃きだったが、なぜか妙に納得がいった。あの時、わたしがまじまじと絵を鑑賞している間、藤本は押し入れの隙間からそれをじっと観察していた──そんな想像して、わたしは思わず悲鳴をあげかけた。

「な、何考えているんだよあいつ!」

 勝手に部屋に上がりこんだことも勝手に絵を見たことも咎める調子は微塵もなく、藤本はあの絵の感想だけを求めているように感じた。そして留守電の最後の方で、彼はこう言っていたのだ。

『明日、お前の部屋行くね』

 

 それからわたしは大学の知り合いの家を転々とした。実家や、中学・高校で仲の良かったひとは訪ねられなかった。ひょっとすると、藤本が把握しているかもしれないと思うと、顔を出す気にもなれなかった。

 部屋に戻らなくなってから一週間ほど経ったある日、所属していたサークルの先輩がわたしの話を耳にして、「面白そうだ」と名乗りを上げ絡んできた。

「村田、お前面白そうな目にあってんな」
「全然洒落にならないっすよ。警察に行こうか考えてるくらいで」
「ばっかお前、はー、最近の若者だねえ。すーぐ警察警察って。別に実害あったわけでもないのに、ビビリすぎだろ」
「先輩は絵を見てないしあいつから着信もないから、そう言えるんですよ。マジでゾッとしましたもん」
「ほー? じゃあ、その留守電聞かせてみろよ」
「ええ……」

 片手を突き出し、「ホラ早く」と催促する先輩に逆らえる後輩がいるだろうか。ところが、わたしが携帯電話を取り出そうとした次の瞬間、まるで待ち構えていたかのように着信のメロディがけたたましくなった。

「げ、藤本から……」
「マジで? 出てみろよ」
「いやいや、無理、無理っす」

 実際、藤本を着信拒否に登録することすら「逆恨みされたらどうしよう」と恐ろしくてできなかったのだ。どうして電話を取れようか。そして、このままのらりくらりとかわしていれば、いずれなあなあで事態は終息するだろうと思っていたわたしの認識は甘かったと言える。

 長々と呼び出し音が鳴り続けた果てに、藤本は留守電を吹き込んだらしい。

「……留守電、聞いてもいいですよ」

 わたしは目を伏せたまま、静かになり無感情に着信があったことを知らせるランプが明滅する携帯電話を先輩に押し付けた。先程まで先輩風を吹かせ、態度の大きかった先輩もさすがにこの時ばかりは神妙な面持ちで「うん」とだけ応じ、携帯電話を開き留守電を再生した。

『………………』

 相変わらず、藤本の声は小さく、ボソボソと喋っているらしかった。サークル部屋にいた他の連中も集まり、顔を寄せ合うようにわたしの携帯電話を覗き込んでいる中、無言のまま先輩が音量を上げる。

『……なあ。あの絵どうだった? お前の感想、そろそろ聞きたいなあ。村田。あれは、お前が見るべき絵だったんだよ……』

 ようやく判別できたのはこれくらいで、それ以外は要領を得ない、ワードサラダのような藤本の言葉が並んでいるばかりだった。

 部屋は水を打ったようにシンと静まり返った。

「……悪い」

 ようやく言葉を発した青い顔をした先輩が、「数日くらいなら俺の部屋来てもいいぞ」と言ってくれたため、多少気まずいものもあったが、わたしはその厚意に甘えることにした。

 そして更にそれから数日経ったある日の夕暮れ時、地元の市外局番から電話がかかってきた。しばし電話を取ることを躊躇したが、鳴り止まないため、訝しみつつも覚悟を決めて電話に出た。

「……もしもし」
『村田くんですか。俊の……藤本俊の父です』

 わたしの怯えた声に応じたのは、藤本の父を名乗る、沈んだ中年の男の声だった。

 

 「藤本の……」
『えっと……村田くん、であっていますよね』
「あ、はい。はじめまして。村田航平(こうへい) です」
『ああよかった。どうしようかと悩んだのですけど、高校の時一番仲良くしていたって聞いていたから、一応』

 何の用事があってかけてきたのだろう。わたしは先を促した。

「あの、どうかしました?」
『いやあ、それが……死にました』
「は?」
『俊ね、死にました』
「は? ちょっと……え?」
『突然こんなことを言って、本当に申し訳ない』
「いや……どうして……あの、病気、とか……?」
『それが病気では……仲良くしてもらっていた村田くんだから言うんですけど、その、裏山で』
「裏山?」

『俊は、裏山で死にました』

 

 はっきりとは言わなかったが、事故や事件に巻き込まれたのではないのだろう。つまり──。

 乱れる脳内を振り払うようにわたしは頭を振ると、努めて冷静に拙いお悔やみの言葉を述べた。そして大事な用事があると嘘をつき、葬式には参加できそうにないと告げた。

 同じ県内にいて、なおかつ旧友なのにその対応はないだろうと、父親が怒り出すことも覚悟したのだが、彼はまるでそうなることがわかっていたかのように『そうですか』と短く応じ、その時はこれで通話を終えた。

 

 彼の父親から再び電話がかかってきたのは、それから二、三日経った頃だった。彼の父親からの電話には正直に言うと応じたくなかったのだが、そういうわけにもいかず、深呼吸をしてから電話を取った。

「村田です」
『俊の父です。先日は急にすみませんでした』
「いえ……」
『……』

 軽い挨拶の後、しばし沈黙が流れた。まさかこちらから電話を切るわけにもいかない。気まずい空気を噛み締めていると、ようやく、父親が静かに語りだした。

『あの……あいつが借りていた部屋を見たんですけど……あの部屋に、大量の絵があったんです。今まであいつが絵に興味あったなんて知らなかったから、私驚いて……。村田くんは何か知らなかったですか?』
「いえ……」

 わたしは曖昧に嘘をついた。「ソウナンデスネ。シリマセンデシタ」とはっきりと口に出してしまえば、わたしが抱いている忌諱感を悟られそうで、あやふやな言葉を口にすることしかできなかったのだ。

『ゴミ箱にも画用紙が大量に捨ててあったんです。練習のつもりだったのか、全部同じ構図で似たような絵ばかりで……絵が描かれたキャンバスもあって、多分それが本番の……完成品だったと思うんです。その……ちょっと変な絵だったんですけど。どうやら、振り込んでやっていた生活費は全部、その絵を描くための画材に使っていたらしくて……なんでそんなことをしたのか……ノイローゼとか……村田くんは何か知りませんか……?』
「……なんででしょうね……」
『……実は、絵の題名、最初はわからなかったんですけど、捨ててあった画用紙の裏にも同じような字で書いてあったから、なんとなくわかったんです。あの絵、【しゅくめい】ってタイトルでした』
「しゅくめい……」

 オウム返しに繰り返したわたしを無視して、父親は語り続けた。

『あいつの誕生日が5月で、それくらいから連絡を取ってなかったんです。でも村田くんもそんな感じですよね? いちいち親と連絡なんか取ったりしませんもんね? いや、私も便りがないのが何よりも元気の知らせかな、なんて思っていたんですけどね……もっと気にかけておけばよかったのかな……』

 わたしは何と言って息子を失った父親を励ましてやればいいのかわからず、静かに聞いていた。

『なんで私の見てないところで……。あいつが死んでいるのを見つける直前、俊を近所で見かけた、って近所の人に言われたんですよ。私には連絡せずに戻ってきたんだなって、その時は……でも部屋にはいなくて。あいつ……家に帰ってきたんじゃなくて、山に帰ってきたんですねえ』
「……」
『村田くんもよく俊と山で遊んでいたんですよね。聞いてますよ。高校の時は、よく付き添ってもらったって……。私が仕事で遅くなるから、できるだけ一緒にいてくれるのは親としても嬉しかったんですけどねえ……。村田くん。私の妻……あの子の母親はね。あいつを産んで家に戻ってきてからすぐ、その裏山で死んだんですよ。太い木の枝に縄を結んで』

 突然そんなことを言われて、わたしは慌てて携帯電話を取り落としそうになった。それが事実なら、高校時代、わたしと藤本は彼の母親が亡くなった山で呑気に遊んでいたということになる。

『私も散々悩んだんだけど、彼女が死んだ理由がちっともわからなくてね。遺書みたいなものはあったんですよ? ただ、遺書には、誰々とはまた会えるからいい、みたいな、よくわからないことが書いてあるだけで……』

 わたしが得体の知れない困惑に包まれている一方、父親の方は興奮してきたのか、段々と声の調子を荒らげてきた。

『私、わからないんですよ。妻が裏山で死んだでしょう。そしてまたそこで、今度は息子が死んだでしょう。何かあるんじゃないかと思うんですよ。でも、それが何か私にはわからなくて……でも、絶対何かあるんですよ。絶対。村田くんは何か知ってるんじゃないんですか。あの頃、よく裏山で遊んでいたんですよね? ね? なんで裏山で遊んでいたんですか? 村田くん、きみは本当に──』

 ヒートアップしてきた父親の声を遮ると、わたしは大声で「これからバイトなんでっ!」と叫び、通話を切った。

 そして、これきり、わたしと藤本と裏山の関係は終わったのだった。

 

 わたしはずっとこれを胸の内に留めていたのだが、社会人となりしばらくたったある時、酒の席でついこの話を漏らしてしまった。

 そして流れでこの話の品評会のような様相になったのだが、その際、「どうして画用紙を大量に使ってまでして、キャンバスに絵を描いたんだろう」という疑問が提示され、とある人物が次のように応じた。

「写真だと駄目な理由があったんだろうな。形として残すには」

 腑に落ちる思いがした。

 あの夏の日、蒸し暑い部屋の中で一度だけ見た絵画と、高校時代に藤本と共に何度も見た山の光景が重なり、赤く染まっていった。酒が回ったわたしの中で、藤本の「きれいだよな」という言葉が何度も何度もリフレインした。

 ──あの時、夕陽に染まる山のことを「きれいだよな」と藤本は言ったのだとわたしは思っていたけれど──実際は──だから絵の中の山は杜撰で──。

「……ああ。あの絵の中の女……あれ、正しい姿だったんだな。藤本には昔からあんな女が……『お母さん』が見えていて……それにずっと呼ばれていて……死んじゃったのか」

 

 藤本の実家には、あれから一度としてわたしは顔を出していない。だから、彼の父親が今どうしているかとか、あの家がまだあるのかとか、わたしは知らない。

 わたしと藤本が歩いた小道は草葉に埋もれていることだろう。街の景色も変わった。あの山からの見晴らしも、きっと変わっている。わたしの知るあの頃の風景は、あそこにはもうない。

 だが、それでも、山はあり続ける。

 夕陽を受け茜色に染まる山は、今もあの頃と同じように。


出典

配信回: 真・禍話/激闘編 赤い山スペシャル
URL: https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/396408733
タイムスタンプ: 00:40 - 13:20